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1 # azdgm92
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2 # 藍風24
大海の日の出
枕をうごかす濤聲に夢を破られ、起つて戸を開きぬ。時は明治二十九年十一月四日の早曉、場所は銚子(てうし)の水明樓にして、樓下は直ちに太平洋なり。
午前四時過ぎにもやあらん、海上なほほの暗く、波の音のみ高し。東の空を望めば、地平線に沿うてくすぶりたる樺色(かばいろ)の橫たはるあり。上りては濃き藍色の空となり、こゝに一痕の弦月ありて、黃金の弓を掛く。光さやかにして、さながら東瀛(とうえい)を鎭するに似たり。左手(ゆんで)に黑くさし出でたるは、犬吠岬(いぬぼうざき)なり。岬端の燈臺には迴轉燈ありて、陸より海にかけ、頻りに白光の環(くわん)を描きぬ。
暫くするほどに、曉風冷々(れいれい)として靑黑き海原を掃ひ來たり、夜の衣は東より次第に剝げて、蒼白き曉の波を踏みて、こなたへこなたへと近寄るさまも指點すべく、磯の黑きに波白く打ちかゝるさまも、漸く明らかになり來たりぬ。目を上ぐれば、黃金の弓と見し月もいつか白銀(しろがね)の弓と變り、くすぶりて見えし東の空も次第に澄みたる黃色を帶びぬ。淼々(べうべう)たる海原に立つ波の、腹は黑うして背は蒼白く、夜の夢はなほ海の上にさまよへど、東の空既にまぶたを開きて、太平洋の夜は今明けんとするなり。
既にして、曙光(しよくわう)は花の開くが如く、圏波(けんぱ)の廣まるが如く、空に水に廣がり行きて、水いよいよ白く、東の空益々黃ばみ、弦月も燈臺もわれと薄れ行きて、果てはありとも見えずなりぬ。この時、日の使とも覺しき渡り鳥の一列、鳴きつれて海原をかすめて過ぐれば、大瀛の波といふ波は悉く爪立ちて東の方を顧み、一種待つあるのさゞめき——聲なきの聲四方に滿つ。
五分過ぎ——十分過ぎぬ。東の空、見る見る金光さし來たり、忽然(こつぜん)として猩紅(しやうこう)の一點海端に浮かび出でぬ。すはや日出でぬと思ふ間もなし。息をもつかせず、瞬く間もなく、海が手もてさゝぐるまゝに、水を出づる紅點は金線となり、黃金の櫛となり、金蹄(きんてい)となり、一搖して名殘りなく水を離れつ。水を離るゝその時遲く、萬斛(ばんこく)の金たらたらと升る日より滴りて、萬里一瞬、こなたをさして長蛇の如く大洋を走ると思へば、眼下の磯に、忽焉(こつえん)として二丈ばかり黃金の雪を飛ばしぬ。
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大海の日の出枕をうごかす濤聲に夢を破られ、起つて戸を開きぬ。時は明治二十九年十一月四日の早曉、場所は銚子(てうし)の水明樓にして、樓下は直ちに太平洋なり。午前四時過ぎにもやあらん、海上なほほの暗く、波の音のみ高し。東の空を望めば、地平線に沿うてくすぶりたる樺色(かばいろ)の橫たはるあり。上りては濃き藍色の空となり、こゝに一痕の弦月ありて、黃金の弓を掛く。光さやかにして、さながら東瀛(とうえい)を鎭するに似たり。左手(ゆんで)に黑くさし出でたるは、犬吠岬(いぬぼうざき)なり。岬端の燈臺には迴轉燈ありて、陸より海にかけ、頻りに白光の環(くわん)を描きぬ。暫くするほどに、曉風冷々(れいれい)として靑黑き海原を掃ひ來たり、夜の衣は東より次第に剝げて、蒼白き曉の波を踏みて、こなたへこなたへと近寄るさまも指點すべく、磯の黑きに波白く打ちかゝるさまも、漸く明らかになり來たりぬ。目を上ぐれば、黃金の弓と見し月もいつか白銀(しろがね)の弓と變り、くすぶりて見えし東の空も次第に澄みたる黃色を帶びぬ。淼々(べうべう)たる海原に立つ波の、腹は黑うして背は蒼白く、夜の夢はなほ海の上にさまよへど、東の空既にまぶたを開きて、太平洋の夜は今明けんとするなり。既にして、曙光(しよくわう)は花の開くが如く、圏波(けんぱ)の廣まるが如く、空に水に廣がり行きて、水いよいよ白く、東の空益々黃ばみ、弦月も燈臺もわれと薄れ行きて、果てはありとも見えずなりぬ。この時、日の使とも覺しき渡り鳥の一列、鳴きつれて海原をかすめて過ぐれば、大瀛の波といふ波は悉く爪立ちて東の方を顧み、一種待つあるのさゞめき——聲なきの聲四方に滿つ。五分過ぎ——十分過ぎぬ。東の空、見る見る金光さし來たり、忽然(こつぜん)として猩紅(しやうこう)の一點海端に浮かび出でぬ。すはや日出でぬと思ふ間もなし。息をもつかせず、瞬く間もなく、海神が手もてさゝぐるまゝに、水を出づる紅點は金線となり、黃金の櫛となり、金蹄(きんてい)となり、一搖して名殘りなく水を離れつ。水を離るゝその時遲く、萬斛(ばんこく)の金たらたらと升る日より滴りて、萬里一瞬、こなたをさして長蛇の如く大洋を走ると思へば、眼下の磯に、忽焉(こつえん)として二丈ばかり黃金の雪を飛ばしぬ。