ナイチンゲール
羅馬音:nai chin gu ru
諧音:耐一親給一露
Florence Nightingale
(1820―1910)
イギリスの看護婦。富豪の家に生まれ、よい家庭環境のなかで高い教育を受けた。生來、看護、衛生、社會問題に深い関心をもち、幼時からおりに觸れて病人に接していた。種々の難関をくぐり短期間ながらカイザースウェルト學園に學び、念願の看護婦になれたのは30歳のときであった。クリミア戦爭(1853~1856)においては患者の側にたつ野戦病院の改革を行い、わずか數か月で死亡率を半減させ「クリミアの天使」と賞賛された。この活動は、デュナンの赤十字創設の起因ともなった。帰國後もらった表彰金および國民からの寄金を基に、ロンドンの聖トーマス病院內に看護學校を設立した。細心、節制、公平、忍耐をモットーに看護教育を體系化し、看護婦の教育は看護婦が行い、看護を宗教から獨立させた。この制度はイギリスから世界各國に広がり、現代の看護教育の基礎となった。クリミアから帰國後は病身となったが、文筆活動は盛んで著作約200、書簡約1萬2000通があり、その內容はイギリス陸軍の改革、看護、公眾衛生、衛生統計、インド問題、婦人問題など多岐にわたっている。また、彼女の意見に従って建てられたナイチンゲール病棟は現在の建築界においてその優れた居住性が見直されている。それらの點から現在では看護婦の母というよりも健康を守る母という聲も高い。
ナイチンゲール
羅馬音:nai chin gu ru
諧音:耐一親給一露
Florence Nightingale
(1820―1910)
イギリスの看護婦。富豪の家に生まれ、よい家庭環境のなかで高い教育を受けた。生來、看護、衛生、社會問題に深い関心をもち、幼時からおりに觸れて病人に接していた。種々の難関をくぐり短期間ながらカイザースウェルト學園に學び、念願の看護婦になれたのは30歳のときであった。クリミア戦爭(1853~1856)においては患者の側にたつ野戦病院の改革を行い、わずか數か月で死亡率を半減させ「クリミアの天使」と賞賛された。この活動は、デュナンの赤十字創設の起因ともなった。帰國後もらった表彰金および國民からの寄金を基に、ロンドンの聖トーマス病院內に看護學校を設立した。細心、節制、公平、忍耐をモットーに看護教育を體系化し、看護婦の教育は看護婦が行い、看護を宗教から獨立させた。この制度はイギリスから世界各國に広がり、現代の看護教育の基礎となった。クリミアから帰國後は病身となったが、文筆活動は盛んで著作約200、書簡約1萬2000通があり、その內容はイギリス陸軍の改革、看護、公眾衛生、衛生統計、インド問題、婦人問題など多岐にわたっている。また、彼女の意見に従って建てられたナイチンゲール病棟は現在の建築界においてその優れた居住性が見直されている。それらの點から現在では看護婦の母というよりも健康を守る母という聲も高い。