嘉永二年(一八四九)十一月、長府藩士乃木希次(まれつぐ)の子として、江戸麻布の長府毛利藩邸に生まれた。乃木家は代々醫をもって江戸長府藩邸に仕えていたようだが希次の時祿高八十石の馬廻格として士分に取り立てられた。 幼名を無人(なきと)、のちに源三(げんぞう)、文蔵(ぶんぞう)と改めた。安政五年(一八五八)十歳のとき、父と共に長府へ帰り、文久三年(一八六三)幕末の爭亂の最中、十五歳で集童場へ入る。ここで桂彌一、滝川辯三らと共に學んだ。 のち松陰の叔父にあたる萩藩の玉木文之進の指導を受け、つづいて萩藩校の明倫館に入學した。慶応二年(一八六六)六月に小倉戦爭がはじまると、彼は萩から長府へ帰り、報國隊に加わって活躍した。このとき十八歳、彼が経験したはじめての戦いだった。明治二年には彼は伏見親兵兵営に入り、ここでフランス式の軍事訓練を受け、職業軍人として歩みはじめた。 明治四年、二十三歳で陸軍少佐に任官、明治十年二十九歳のときには第十四連隊長心得として西南の役に出陣したが、熊本城攻撃の最中に連隊旗を失うという事件が発生し、生涯彼の心に大きな負擔を與えつづけ後の殉死に至る大きな要因となった。明治十九年ドイツ留學、同二十一年帰國。このドイツ留學後、彼はその生活態度を一変させ、以後「乃木式」と呼ばれる質実簡素な生活が始まった。 明治二十五年、彼が四十四歳のとき、一時軍を退いて栃木県那須で農耕生活に入ったが、二十七年に日清戦爭がはじまると第一旅団長として參戦、また三十七年に日露戦爭がはじまると第三軍司令官として旅順要塞の攻略戦を指揮した。 このとき彼は二人の息子を戦いで失い、名高い「山川草木転荒涼・十里風腥新戦場・征馬不前人不語・金州城外立斜陽」の詩を殘した。 明治四十年、五十九歳のとき明治天皇の要請で學習院院長に就任、彼の人間性が教育の面に強く浮き雕りされた。希典が妻靜子と共に、東京赤坂の私邸で自刃したのは大正元年(一九一二)六十四歳の秋で、終生敬愛した明治天皇の死に殉じたものだった。彼は詩人としても非凡な才能を持ち、書にも巧みであった。長府には、長府博物館・乃木神社寶物館・豊浦小學校教育資料館・長府図書館等に數多くのゆかりの品が儲存されてる。
嘉永二年(一八四九)十一月、長府藩士乃木希次(まれつぐ)の子として、江戸麻布の長府毛利藩邸に生まれた。乃木家は代々醫をもって江戸長府藩邸に仕えていたようだが希次の時祿高八十石の馬廻格として士分に取り立てられた。 幼名を無人(なきと)、のちに源三(げんぞう)、文蔵(ぶんぞう)と改めた。安政五年(一八五八)十歳のとき、父と共に長府へ帰り、文久三年(一八六三)幕末の爭亂の最中、十五歳で集童場へ入る。ここで桂彌一、滝川辯三らと共に學んだ。 のち松陰の叔父にあたる萩藩の玉木文之進の指導を受け、つづいて萩藩校の明倫館に入學した。慶応二年(一八六六)六月に小倉戦爭がはじまると、彼は萩から長府へ帰り、報國隊に加わって活躍した。このとき十八歳、彼が経験したはじめての戦いだった。明治二年には彼は伏見親兵兵営に入り、ここでフランス式の軍事訓練を受け、職業軍人として歩みはじめた。 明治四年、二十三歳で陸軍少佐に任官、明治十年二十九歳のときには第十四連隊長心得として西南の役に出陣したが、熊本城攻撃の最中に連隊旗を失うという事件が発生し、生涯彼の心に大きな負擔を與えつづけ後の殉死に至る大きな要因となった。明治十九年ドイツ留學、同二十一年帰國。このドイツ留學後、彼はその生活態度を一変させ、以後「乃木式」と呼ばれる質実簡素な生活が始まった。 明治二十五年、彼が四十四歳のとき、一時軍を退いて栃木県那須で農耕生活に入ったが、二十七年に日清戦爭がはじまると第一旅団長として參戦、また三十七年に日露戦爭がはじまると第三軍司令官として旅順要塞の攻略戦を指揮した。 このとき彼は二人の息子を戦いで失い、名高い「山川草木転荒涼・十里風腥新戦場・征馬不前人不語・金州城外立斜陽」の詩を殘した。 明治四十年、五十九歳のとき明治天皇の要請で學習院院長に就任、彼の人間性が教育の面に強く浮き雕りされた。希典が妻靜子と共に、東京赤坂の私邸で自刃したのは大正元年(一九一二)六十四歳の秋で、終生敬愛した明治天皇の死に殉じたものだった。彼は詩人としても非凡な才能を持ち、書にも巧みであった。長府には、長府博物館・乃木神社寶物館・豊浦小學校教育資料館・長府図書館等に數多くのゆかりの品が儲存されてる。