諾門罕戰役勝利者毫無疑問是蘇軍,可有些人認為蘇軍損失大點,就亂吹日軍,甚至還有日雜認為日軍是勝利者。
哈勒欣河戰役中,日軍參加作戰的部隊包括第23師團,第7師團第26、28步兵聯隊,第8國境守備隊,關東軍炮兵團(第3野戰重炮兵旅團,下轄第1野戰重炮兵聯隊、第7獨立野戰重炮兵聯隊,第1炮兵偵察聯隊;此外還有穆稜重炮兵聯隊。
二戰期間,日本在海拉爾修建了一座忠靈塔(當然現在肯定已經被拆掉了),就是這麼個玩意:
塔上所刻數字則認為日軍此戰中死亡9471人。另外偽軍中也有202名(日籍)軍人死亡。也就是日軍已經否定自己的戰時報告了。
厚生省在昭和47年做的統計是戰沒11124人,比7720還是高出很多的(其實7720不是整個哈勒欣河戰役的死亡人數統計)。更不用說日軍中還有失蹤的人員,戰時統計給出數字近千人(但這裡可能包括一些實際上死亡但登記為失蹤的)。然而無論如何,根據以上資訊可以得出結論,僅日軍就因哈勒欣河戰役死亡被俘失蹤至少約1.2萬人。再加上戰時報告給出的約1.2萬人的傷病。日軍損失可能在2.3萬或2.4萬人以上也就是與蘇軍差不多甚至高於蘇軍。
關於偽軍的損失資料不好找。日語維基上提到了隻言片語:
1939年にノモンハン事件が発生すると、ウルジン中將の指揮する烏爾金部隊(興安騎兵第1、第2、第8団)が出動した。その後、5月に國防軍として新編成されたばかりの興安師(師長:野村登亀江中將)を基幹とした興安支隊(興安騎兵第4、第5、第6、第12団ほか:約6~7,000名)が派遣された
[7]
。興安支隊は、7月1日、ノロ高地攻撃を前にソ連軍の砲撃を受けたことで部隊の掌握が困難となり、戦意が低下した。その後の戦闘で支隊の被害は増え、日系軍官の死傷も相次いだことから、士気が亂れた一部の部隊では離隊逃亡者が続出した
[8]
。長野支隊の増援を受けて、7月10日、興安支隊は殘存兵力で三角山を奪取した。7月21日の戦闘で野村支隊長が負傷後送され、殘り300名餘りとなった興安支隊は、8月2日に日本軍と守備を交替して後方集結した
[9]
。興安支隊の損害は死傷2,895名であった
出動總兵力6000多人的興安軍騎兵師(第4-5、12騎兵團)上報的損失就有2895人。出處是小澤(1976年)、152頁,一個軍官的回憶錄
此外偽軍參戰的還有2000人的石蘭斌支隊、興安北警備軍的數百名騎兵、兵力不詳的鈴木支隊。為了搞清楚情況,又查了一些資料
出動部隊>
・興安支隊(興安騎兵師基幹:騎兵4個団,教導団,蒙古少年隊,裝甲車隊ほか)
指揮官:野村中將(日系),兵力6000人
・興安北警備軍(第10軍管區):騎兵4個団ほか
指揮官:鳥爾金將軍,兵力600~1000人
・石蘭支隊(第3軍管區の第3教導団基幹)
指揮官:石蘭將軍,兵力3000人
・鈴木支隊(第1軍管區?の第1教導団基幹)
指揮官:鈴木將軍(日系),兵力3000人
——偽軍出動的兵力包括興安騎兵師(4個騎兵團,教導團、蒙古少年隊、裝甲車隊,總兵力6000人)、興安北警備軍第10軍管區所屬600-1000名騎兵、以第3軍管區第3教導團為基幹組建有約3000兵力的石蘭支隊、以第1軍管區第1教導團為基幹組建有約3000兵力的鈴木支隊。注意這裡給出的偽軍兵力比之前引用資料中給出的資料略高
第二次ノモンハン事件
31日,敵襲により,騎兵5・6団400名潰走.日本軍司令部に一時,蒙古騎兵と誤認させ混亂招く.
支隊長,日本機の誤爆(?)により負傷.ほぼ支隊壊滅となり,第8國境守備隊と交代.
8月2日,興安支隊後退.殘存戦力300名(5%).死傷2895名以上.
8月上旬,興安支隊に代わり,石蘭支隊と鈴木支隊を最左翼に投入.
20日,ソ連軍総攻撃開始.右翼の北警備軍(騎2・8団),蒙騎6師団により撃破され後退.
21日,左翼の石蘭支隊3教導団1営の240名が反亂.日系將校を殺害し,集団投降.
石蘭支隊殘存部隊は,後退しつつも防戦に努める.鈴木支隊は後方待機.
24日,右翼の北警備軍殘存部隊,井置支隊(23師団捜索隊基幹)の撤退を掩護.
——打到8月2日,蘇軍大反攻還在籌備中,興安支隊就已經殘餘兵力只剩300人(5%),死傷報上去了2895人。按照兵力來計算損失總數是5700,剩餘300(原兵力6000人)。所以這個興安支隊的損失可能漏報有一半,總損失很有可能為5700人
石蘭支隊第3教導團第1營240名官兵發生叛亂,殺死日籍軍官後集體倒戈蘇軍
<損害>
日系の戦死者202名.
興安支隊の損害死傷2895名.
このほか北警備軍の損害として,モンゴル側が8月2日の戦果としているものが「小銃100」など.
少々誇張されているでしょうし,遺棄兵器も多いでしょうから,死傷60名と見ます.
ただ,ほかにも小隊が全滅している光景を7月頃7月頃に記録されたりしていますから,総數はもっと多いか.
ほかに,石蘭支隊の集団投降240名など,捕虜は相當數でしょう.
脫走兵が非常に多いのは言うまでも無し.
日系兵士202名戦死以外,ほとんど確かな數字は無いようですが,おおざっぱに推定すると,死傷と捕虜合わせた損害は,4000前後と見てよい気がします.
ほかに落伍兵・脫走兵は數千人単位でしょう.
これらは不問とされて,復帰が認められたそうです.
——這裡明確說明202人是偽軍中日籍人員戰死數,不包括偽滿洲國人。偽軍總損失有4000以上,另外還有上千人逃亡,合計5000人。但興安支隊的損失情況如前所述,因此偽軍損失可能漏報達一半之多,即真實損失可能達到1萬人左右
另外日軍第13野戰炮兵聯隊整個哈勒欣河戰役中發射的炮彈總數:45747發。其中(7.23-5)炮戰其間6964發。相比之下關東軍炮兵團從7.23-8.14(關東軍炮兵團於7.23首次投入戰鬥)就發射了24800發炮彈,其中7.23-5的炮戰就發射了13524發
也就是說僅關東軍炮兵團、第13野戰炮兵聯隊就至少打了近7萬發炮彈(因為時間段問題,實際上肯定更多)。
大致總結一下就是,蘇軍固然投入了大量兵力兵器和補給,但日軍也是下了血本的。哈勒欣河戰役中僅師團及以上級別炮兵就徹底損失了82門火炮。這些火炮中口徑最小的也有75 mm。
日軍火炮只有蘇軍一半,而損失確想盡,毫無疑問這種損失對日軍來說是巨大的。
最後再多說一點。紅軍空軍確實在戰鬥中損失了207架飛機,加上非戰鬥損失42架,總計達249架。但日本陸軍航空隊的損失也可能達到182架(或者可能只包括戰鬥損失就有182架)
而日軍投入飛機約240架,是蘇軍一半,確損失182架,可以說損失殆盡。
所以毫無疑問這些損失對日軍來說無疑是巨大的,而96式加農炮產量不過100門,僅僅這一場戰役就損失被繳獲18門,損失率18%。